命とは人格である――
命は平等です。
掃除機のゴミだまりに巣くうダニも、思いを寄せる恋人(ミクさんではない)にも平等に命があります。
しかしながら、遠くの国の知らない人が亡くなったとしても、私は、大して悲しみません。一方、命のないボーカロイドであっても、それを失ってしまうと、大事なパートナーを失ったかのような深い悲しみを抱いてしまいます。
小説やコミックで、優しいヒロインや世話になった恩師が死ぬシーンには、心を打つものがあります。一方、モブがやられる描写があっても、一出来事として過ぎ去っていくだけです。
この差は何なのだろうか? という問いに、思い入れの差である、あるいは、人間の命は人間にとって重要である、創作物においては、そういう技巧である、と解説することができます。
しかし、(ミクさんフィギュアと会話できる)自称ボカロPの温州みかん はこう考えます。
命を感じていないと、風景にうずもれてしまう ゆえに死を感じない
人形にさえ命を感じるのは、想像力のなせるワザ 対象に「人格」を感じるからだ
つまり、命とは人格である、と
彼女の歌声に、生命を感じる人、感じない人、まちまちです。
なお、16歳です。
暗黙の了解というのは、RPGにかかわらず、どの分野のゲームにもあります。
言ってしまえば【業界】と呼ばれるすべての分野に存在するかもしれません。
今回は、RPGで序盤やストーリーの転換期、盛り上がるところで一時的に加入するゲストキャラについての考察です。
このゲストキャラの離脱原因の多くは「死亡」あるいは「裏切り」です。※
強いインパクトを与えるための、演出です。
プレイヤーにとって、仲間になったキャラクターと、仲間にならないキャラクターの間には、とても大きな差さがあります。RPGでは、装備品を整えたり、成長させたりできます。
仲間にならないキャラクターでもストーリーに重要だったり、システムに重要だったりするとそれなりに思い入れは増しますが、プレイヤーが操作できるわけではありません。
RPGにおいて、その決定的な差です。たとえ一時的な加入キャラであってもプレーヤーに「主格」を感じさせます。
システムとストーリー、それから心理学的な要素をフルに用いた一大イベントが「加入キャラの離脱」です。
ところが、精魂込めて育てたキャラが離脱し、再加入もしない場合、プレイヤーは素直にイベントを楽しめません。制作者から、裏切られたように感じるのです。ゲーム全体でリソースの限られた投資をしていると、なおさらです。
そこで、一時的に加入するゲストキャラをXXす、というシナリオが一般化し、暗黙の了解のようになっていると考えられます。
私の場合、むしろ、盛り場でXXすために、仲間に入れるイベントを用意する、という逆順序でストーリーを作っています。
そして、このある意味 手垢にまみれた禁断の呪法は、もちろん「妹のドリームランド(仮題)」にも使われています。出落ちですが・・・マミったってやつ・・・
※最近は大人の事情(商業的コラボ、前作の人気キャラの登用)での加入も多いです。