フリーゲーム「妹のドリームランド」開発室

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「自由なゲーム」とは (なんかコメください)

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「自由なゲーム」とは


人はどんな時「自由」であると感じるのでしょうか?
多くの人は「したいことができる時」と答えるだろうと予想します。

そして、それは正解に限りなく近いだろうとも判断できます。

しかし、自称ボカロP温州みかん はこう考えます。
思いもよらない選択肢が示されたとき、人は「自由」を感じるのではないのか? と。

逆に、したいときにしたいことができないのは、自由ではない、と定義する以前に、苦痛な状況だと考えたほうがいいだろうとも考えられますし、苦痛ではない状況が、すなわち「自由」を感じられる状況であるとも思えないからです。


◇ここから、ゲームデザインの話◇

RPGで例えるなら、お使いイベントの最中、橋が壊れて進めなかったとします。
村人A「橋が直るまで2、3日ってとこだな。この辺は料理がうまい。村でも見て回っててくれ」
プレイヤーは何かの”フラグ”を探したり、あるいは、そういう”イベント”なんだろう、と考えて終わりです。
橋が壊れていることに「自由なゲーム」ではないと感じたりはしませんし、
橋が壊れていなかったとしても「自由なゲーム」だとは感じない のではないかと推測できるわけです。

しかし、即「村を散策する」「直すのを手伝う」「泳いで渡る」と選択肢が表示されたらどうでしょうか?
近くにいる他のNPCに話したら「上流には橋がある」「下流には渡し守がいる」という情報が開示されたらどうでしょうか?


プレーの幅を感じると思われるのです。


もし、泳ぐ選択肢を選んだものの、さきほどの村人Aに止められ、結局渡れなかったとしても「自由さ」はそれほど損なわれないだろう、ともはかられます。

つまり、この「プレイヤーの思いもよらない選択肢の提示」こそ「自由なゲーム」の雰囲気の作りかただと仮定できるのです。

 

「妹のドリームランド」には上記の応用をいくつか取り入れています。

検証、というより、お試しです。現在残念なことに、コメントは一つもありませんが・・・


なお、上記の橋を渡るイベントはこの「自由なゲーム」とは の記事を書く上で思いついたもので、イモドリの中にはありません。